式内社しきないしゃ 伊那いな下神社しもじんじゃ
 
さい じん  
  山神やまのかみ ひこ火火出ほほでみのみこと( 石火宮いしびぐう祭神さいじん海神うみのかみ 住吉すみよしはしらの大神おおかみ( 唐大からだいみょうじん祭神さいじんしん とく  さんぎょうしゅ交通航海こうつうこうかいしゅ
        延命えんめいちょう寿じゅがく業就職ぎょうしゅうしょくしゅあししゅ
創建そうけん由緒ゆいしょ
 かみやどるやま牛原山うしばらやまふもとにはひと生活せいかつくことのできない神水かみみずが、しています。 ここはいしごう那賀なかごうとのきょうかいであり、ふたつのさと出入でいりする関門かんもんであったため、西にし伊豆いずようとしてさかえました。 かつては大山祇神おおやまずみかみ系統けいとうであるいしぞくんでいました。むかしやまそのものをかみをまつるとしたため社殿しゃでんなく、牛原山うしばらやま嶺三本松みねさんぼんまつばれるところが、 まつりをするぜんさいじょうでした。としうつ土地とち発展はってんにともない此処ここ神社じんじゃがもうけられ、さんぎょうしゅ しんでもあるひこ火火出ほほでみのみこと石火宮いしびぐうたたえて尊崇そんすうしてきました。またこの神社じんじゃぞく唐大からだいみょうじんしょうする げんは、四世よんせいらぎ征討せいとうとき、このくにひと皇后こうごうふねまもり、なが豊浦とよらとどまり のちにこの松崎まつざきて、ここにかららぎ征討せいとう神功皇后じんぐうこうごうゆかりの住吉すみよし三神さんじんちんしたためであるといわれています。
 げんころより、やまなかまつりからはじまっているのでちん年代ねんだいしょうです。平安へいあんえんしきというちょうてい神社名じんじゃめい簿に「いなしりのみょうじん」 とあり、このえんせいもとづいて、年祭ねんさいにはくにからのおもつがあり、以後いごなんくらいがあがり、神階四しんかいよんじょうといわれていました。またしょうがつがつがつ二十日はつかさいちょうてい神道祭しんとうさい うら部家べけより、累代るいだいのこの神社じんじゃもり本官ほんかん服装ふくそう有紋黒袍ゆうもんくろほう)をちゃくようさいつかさどることをゆるされました。めい六年ろくねん月村社がつむらこそれっし、しょう和五わご年八月郷社ねんはちがつごうしゃとなり同年どうねんには、 こうから例祭れいさいにおそなえの神饌幣帛しんせんへいはく料供りょうきょう進社しんしゃていされました。
 また、この神社じんじゃふるくから航海安全こうかいあんぜんもくひょうとされ、ぎょぎょうたずさわるひとうみさちねがい、もとのみならず駿する河路がじする旅人たびびと信仰しんこうあつめ、みなもとの頼朝よりともはじ武家ぶけ崇敬すうけいあつく、 おおくのしんもありました。
社号しゃごうらい
 けんりゃく元年がんねん文書ぶんしょは『しなしょう松崎まつざき』とあるのをとって、しな西にし伊那いなやくであるとのせつ
『いな』はらぎ帰化きかじん造船ぞうせんじゅつたくみな猪名部いなべ一族いちぞくがこのにやってて、船舶せんぱく建造けんぞうじゅうしたことをもって、そのしゅうらく猪名いなといっていたとのせつなどがあります。ところがのち伊那いなわり港湾こうわん伊那いなわんと呼び、伊那いなわんほうにある当社とうしゃ伊那いな下神社しもじんじゃしょうするようになりました。
れい さい
 じゅう一月二いちがつふつみっ祭礼れいさいです。ふつ日午かごぜん五時ごじ輿こし神霊しんれいうつ旅式たびしきのあと境内けいだい獅子ししまいわせ)をおこない、うじちょうないをめぐりあくりょうきよめます。わせの荒々あらあらしさから、ケンカ獅子ししばれ、唐大からだいみょうじんあらたまをあらわしているとつたえます。みっには輿濱こしはまりが おこなわれ、お濱降神はまおりしんがありかく旅所たびしょをまわります。またふつみっ夕方ゆうがたには殿でんてん太平たいへい穀豊こくほうじょうせんしゅう万歳ばんざいねがってさんそう奉納ほうのうされ、きょう芸能げいのうながつたえています。
境内社けいだいしゃ
大足おおあしさま   あしかみ
いつくしまさま   交通航海こうつうこうかいしゅかみ
あきさま   ぼうかみ
愛宕あたごさま   ちんかみ
しまさま   えきびょう退散たいさんかみ
こん比羅ぴらさま  福徳ふくとくかみ
天神てんじんさま   がくぎょう書道しょどうかみ
特殊信仰とくしゅしんこう
 あしかみをまつる大足社おおあししゃは、あしやまいこうがあると、温泉おんせんおとずれる老人ろうじんわかひとまでもがおまいりにられます。むかしからぞうをおそなえすると足腰あしこしげんになるとつたえられ、おおくのいつのこされています。ぞう絵馬えま奉納ほうのうされます。
松崎まつざき国神社こくじんじゃ (しょうさんじゅう七年しちねんじゅう月鎮がつちん
 辰戦争しんせんそうより大東だいとう戦争せんそうまで、このより出征しゅっせいして戦没せんぼつしたろっぴゃくはしら英霊えいれいまつられています。じゅうがつじゅん祭典さいてんがあります。
天然てんねん念物ねんぶつ (しょう和二わにじゅう七年しちねん月一日県がつついたちけんてい
  おやいちょう
 拝殿前はいでんまえにはどおはちメートル、枝張えだばりじゅうメートル、樹高じゅこうじゅうメートル、樹齢約千年じゅれいやくせんねんははいちょうがあり、ほんちちいちょう・いちょう)とあわせて、つうしょう “おやいちょう”といわれています。あき紅葉こうようせつには、おきゆくふねもくひょうにしたとつたえられ、空一面そらいちめんいろくものようにおおい、一大いちだいかんをあらわします。
神明水しんめいすい
  かみむかしからりゅうまもられてきたちょう寿じゅいずみ
かみやまあお牛原山うしばらやま地下ちかすいが、こんこんとしています。清々すがすがしくとおったみずくちふくむとまろやかなあまみで、おちゃやコーヒーが美味うまくなると、くみにひとたちがきをりません。
 もとではちょう寿じゅいずみともばれ、息災そくさいねがじゅくねんだいとくにんがあります。せいじゃく境内けいだい信仰しんこうあつめるおおいちょう共々後世ともどもこうせいつたえたい名水めいすいです。
宝物ほうもつ
松藤双鶴まつふじそうかくきょう
鎌倉かまくら代初だいしょきょう社伝しゃでんによればみなもとの頼朝よりともしんといわれます。しょうじゅうねん月国宝がつこくほうていされました。 まつふじをからませ水草みずくさうえ二羽にわつる姿すがたをあらわしたすぐれた作品さくひんです。
七寶しっぽうつなぎ双鶴そうかくきょう
室町むろまちだいきょうちゅうぞうがよくされ、当神社とうじんじゃ神紋しんもんである七宝しっぽうつなぎようかめこうらしたきくせっしたつるがよくあらわれています。
はぎ薄蝶すすきちょうどりきょう
藤原ふじわらだいきょうで、きょうではめずらしい毛彫けぼりの神像しんぞうがあります。
伊那いなしも大額たいがく
  山岡鉄やまおかてっしゅうしょいりちょう八漆喰はちしっくい仕上しあ
 ちょうはち背景はいけいだいせきにみせて漆喰しっくいしたもので、そのは、いねたばねたふで豪快ごうかいかれたようすがうかがえます。  めいじゅう三年さんねん山岡鉄やまおかてっしゅうよんじゅうさいときです
神功皇后じんぐうこうごう竹内たけのうちの宿すく応神天皇漆喰人おうじんてんのうしっくいにんぎょう 
 いりちょうはち神社じんじゃ由緒ゆいしょちな神功皇后じんぐうこうごう竹内たけのうちの宿すくとの三尊像さんそんぞうをつくって奉納ほうのうした作品さくひんで、その手法しゅほう漆喰しっくい着色ちゃくしょくにはぎょくがんもちいて、かみには毛髪もうはつえたにんぎょうです。 とくかおうつくしく幕末ばくまつにんぎょう作風さくふうつたえ、ちょうはちさくちゅうこのしゅのものはいつ作品さくひんきわめてゆうしゅうなものです。 めい治九じくねんろくじゅうさい制作せいさく
金銅こんどう製釣灯籠せいつりどうろう
 けい長十ちょうじゅうねん金山きんざんぎょうおお久保くぼ石見守いわみのかみちょうあん)がしんしたものでけんぶんざいです。
文書もんじょ けんりゃく元年がんねんせんにひゃくじゅういち)のかつお船安ぶねあんじょう
 石火宮いしびぐうには漁船三艘ぎょせんさんそう黒印文書こくいんぶんしょがあり、里人さとびとはこの文書ぶんしょ差置さしおきといい、ふねのぼり供採かみよのぼりといっていました。

*そのほかすう絵馬えま和歌わかなどがのこされています。